講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 5
光と陰が激しく交錯する波乱万丈の野球人生の始まり
中学の野球部では目立った成績も上げられず、3年間が終わりました。思い出に残っているのは、3年生最後の夏、38・7度の高熱があるにも拘らず、出場した試合で4打席連続ホームランを打ったことぐらいでしょうか。そして、しばらくした後、先生に呼ばれて「9つの高校から声がかかっているが、どうするか」と言われましたが、私は友達といっしょに大阪の会社に就職するつもりだったので、きっぱりその有難いお誘いを全て断ったのです。もちろん、先生は納得がいかず、親父に連絡を取り、その旨を伝えたようです。今度は親父から呼び出しを受け「馬鹿もの!今の時代、高校ぐらい出ないと大した会社には入れないぞ」ときつい一言。結局、高校へは進学したのですが、もちろん申し出のあった高校ではなく、幼稚園、小学校、中学校の先輩がいた直方学園高等学校を選びました。
高校3年生になって、プロ野球の南海ホークスから投手で来てくれないかというお誘いを受けました。私は外野と同時に投手もやっていたのですが、南海ホークスのスカウトが見に来ていた試合で投げていた時のことです。4回2アウトのカウントで、次の打者にカーブを投げたのです。すると、バキッという音がしました。とても投げられる状態ではないと思い、私は監督にお願いして投手を交代してもらいました。病院で診てもらったところ、腕が折れてしまっていたのです。しかし、その後も試合に出続け、北九州市民球場で行われた高校最後の打席でホームランを打ちました。その活躍が早稲田大学のスカウトの目に止まり、早稲田大学からも声がかかったのです。さて、南海ホークスはどうなったのかと言いますと、監督に問いただしてみると「ケガするやつは要らん」と言われたそうです。この一言で月の裏側までプロ野球が飛んで行ってしまったようなショックを受けましたね。南海が消えて早大が浮上した訳ですが、監督に相談すると「お前の学力で早大に入っても卒業できないから諦めろ!」と一喝され、再び親父に事情を説明し、自分は社会人野球に進みたいという意志表示をしました。すると、「馬鹿もの!今の時代、大学ぐらい出ないと大した会社には入れないぞ」と一蹴。数年前に聞いた“高校”が“大学”にすり替わっているじゃありませんか。早大は諦めましたが、私が入学することで特待生3人を受け入れるという地元の九州産業大学に入学することになりました。
