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2008年04月30日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 10

妥協を許さないコーチとしてリーグ優勝・日本一に貢献

 日本ハムに14年間、在籍した後、現役最後は福岡ダイエー・ホークスにお世話になることになりました。入団してみると、素晴らしい選手はたくさんいるのに成績はサッパリ。とても戦う集団という雰囲気はなく、試合に負けても何も感じない。負けても次の年には給料が上がるから、試合の勝ち負けは関係ないといった雰囲気でした。

 私は4月28日に川崎球場でデッド・ボールを受けて、右くるぶしの上3カ所を骨折。その結果、現役復帰も叶わずユニホームを脱ぐ決意をしました。引退後、プロ野球の解説者として5年間を過ごしましたが、その5年目にゴルフのプロテストを受けようと思い、練習をしている時のこと。突然、携帯電話が鳴り、電話を取ると「福岡ダイエー・ホークスの王貞治だけれども」という声。いきなりの電話に緊張していると「君にコーチを引き受けてもらいたい」というありがたい申し出に、迷うことなく引き受ける決心をしたのです。

 さて、コーチに就任する1997年、その前年のシーズンは最下位。Bクラスの常連で、4位、5位、6位の階段を行ったり来たりという状態を何十年と続けているチームでした。この年に入団してきた選手はドラフト1位で井口資仁選手、2位が松中信彦選手、3位が柴原洋選手。私は早く勝てる集団にするため、これらの新入団の選手を超一流の選手に育てたいと考えました。

 井口選手は走攻守3拍子揃った素晴らしい選手でしたが、本人はホームランバッターと決めつけていたようです。その特性を活かすように勧めても、全く聞く耳を持ちません。案の定、1年目も2年目も打率1割台という成績。3年目の春のキャンプの時、井口選手が私のところへやって来て「島田さん、3拍子揃った選手になりたいんですけど」と頼みにきたのです。私は内心「やっと来たか!」と思いました。井口選手に盗塁に関するテクニックを伝授し、その年、盗塁王を取りました。柴原選手も同じ頃、バッティングフォームを摺り足に変え、その年、3割を打ちました。その後に入団した川崎宗則選手にも、主にピッチャーの癖をどう見破るかということを徹底的に教え込み、彼は盗塁王に輝きました。

 コーチとして10年間、ホークスにお世話になり、2年前の2006年に退団しました。

 実は今年の春、北海道日本ハムの監督に就任することが9割方決まっていたのですが、諸事情によって沙汰止みになりました。監督になれなくて良かったという人もいます。2年連続で優勝しているチームの後を引き継いで、最下位になったら1年でクビだというわけです。いい人生なのか、悪い人生なのか、本当に良く分からない。いつもギリギリのところで「待った」がかかる人生です。梨田昌孝監督は2年契約と聞いておりますので、その後、私が監督になれましたら、ひとつ日本ハムを応援してください。その時は恐らく王監督も退かれていらっしゃることと思いますので、思う存分、采配をふるえると思います。

 本日は、長い時間、ご静聴ありがとうございました。

2008年04月28日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 9

憎まれ役に徹したコーチ その裏に隠された本物の愛情

 日本ハムに入団後10年経ったある時に、2軍監督だった福田さんから電話がかかってきました。電話の内容は「君のような選手をもう一度育ててみたい」というものでした。福田さんは日本ハムをお辞めになって、さらにコーチとしてロッテ、中日、南海で手腕を発揮されていましたが、福田さんといえば、いやでも思い出してしまう記憶があります。入団1年目の7月8日から8月8日までの1カ月間、来る日も来る日も炎天下の真夏に、フライ捕球300本、バッティング500球という猛特訓を受けたのです。福田さんがノックするとフライがそのまま青空に吸い込まれるんじゃないかと思うぐらい高く飛びます。300本近くになると身体はヘトヘト、意識は朦朧としてきます。その時福田さんから「アマチュアならばワンバウンドで捕球してもいいが、プロはスライディングをして腕に擦り傷ができても必ず捕球しないといけない」という厳しいアドバイスを受けました。今、思えば、この時の教えがあったからこそ、ゴールデン・グラブ賞を6回も受賞できたのだと思います。

 入団発表の時に、1年間ユニフォームを着させてやるから、次の仕事を探しておくようにと言われた人に、「君のような選手をもう一度育ててみたい」と言わせたのかと思った瞬間、内心「やったぜ」と溜飲が下がる思いでした。しかし、その電話を受けた3日後、福田さんは他界されました。ガンだったそうです。福田さんの死後、よくよく考えてみましたら、福田さんは私の体格や負けん気の強い性格を考慮に入れて、何とか身体の大きい選手にも負けない体力と精神力を鍛え上げるために、意図的に私の反抗心を煽るような言動や態度をとっていたのだと思います。私は、そのことに気付いた時、愕然とすると同時に、福田さんへの感謝の気持ちが自然と沸き上がってくるのでした。

2008年04月25日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 8

ONから声をかけていただき舞い上がった瞬間も

 教育リーグの1試合目は読売巨人軍でした。メンバーを見ると、ピッチャー定岡、サード中畑、ショート篠塚、ファースト山本、センター松本という錚々たる顔ぶれ。2軍でロクに練習もしていないくせに、私は相手に不足はないなと思い、1番ライトで出場しました。結果は5打数5安打。2試合目のロッテ戦では4打数2安打2本塁打でした。この活躍が認められて、今度こそはの1軍です。オープン戦の何試合目だったでしょうか、巨人と戦う試合がありました。相手ピッチャーは外国人投手で、私がバッターボックスに入ってボールを投げた初球が肘の肉の薄い部分に当たって死球です。痛さをこらえて、一塁に向かうと、そこに仁王立ちしていたのが王貞治選手です。「大丈夫?」という一言の後、次のような信じられない言葉を頂いたのです。「ケガはなるべく少なく、長く球界に貢献できる選手になりなさい」。普通であれば、「チームに貢献できる」となるところでしょうが、この球界という言葉の重みは言い表せないほど嬉しかったことを覚えています。試合後、長嶋茂雄監督からも少し表現が違いますが「ロング・ロング・タイムだからね」というお言葉も頂きました。

 1軍でレギュラーをつかむまで紆余曲折がありましたが、この日本ハムで14年間プレーすることができました。

2008年04月24日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 7

上を目指して頑張り続けた汗と涙の2軍生活

 さて、入団発表があって間もなく、1月下旬の自主トレの後、2月に入りキャンプが始まりました。場所は四国の鳴門市です。ランニング、キャッチボールと続いて、次はいよいよバッティングです。さあ、いいところを見せないとと思っていると、「おい島田、君は外野スタンドで守ってくれ」とあの福田さんから声がかかりました。何のことはない、ホームランボールを拾って、外野に投げ返すように命じられたのです。しかも、それが何日も続きました。面白くありませんから、クソッと思いながら力一杯投げ返していましたが、何日目だったでしょうか、1軍の大沢啓二監督が慰問に来られたのです。いつものように、全力投球で外野スタンドからボールを投げ返すと大沢監督のお腹に命中してしまいました。しまったと思い、咄嗟に隠れたのですが、すぐにバレてしまい大沢監督の前に呼び出されました。そこで、なぜ、速球を投げ返したのかその理由を話すと、大沢監督からは「明日から1軍の紅白戦に出ろ」という意外な一言が飛び出したのです。よくよく聞いてみると、1軍の選手の頭数が足りないからという理由でした。

 9番ライトで出場し、いきなり4打数3安打。すると、大沢監督から「おい島田、お前は1軍に合流しろ、荷物は1軍の宿舎に移しておけ」といわれたのです。私は天にも昇る気持ちで、その日が2軍の宿舎の最後の日になるはずだったのですが、その時、40度の高熱が出て、3日間寝込んでしまいました。当然、1軍行きは無し。その後、また2軍に戻され、すぐに多摩川に戻って、グランド整備をしておくようにいわれました。私も、さすがにもうここまでかという気持ちになりましたが、キャンプが終わって、3月からはオープン戦が始まります。すると、また大沢監督から声がかかりました。「1軍でケガをした選手がいるから、島田を合流させろ」と。しかし、私はこの間、1週間程、練習していません。ならばということで、「教育リーグで2試合に出場させて、結果が良ければ1軍昇格だ」ということになったのです。

2008年04月23日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 6

ドラフト外で日本ハムに入団 しかし、またもや試練が

 大学時代もすぐにレギュラーになり、ベストナインにも選ばれました。大学卒業後は、名古屋にあるノンプロの丹羽鉦電機に入社したのですが、なんと野球部はすぐに廃部。その後は何とか野球を続けるために、創部して間もない地元福岡のあけぼの通商という会社の野球部に所属していました。すると、中日ドラゴンズから「今度のドラフトにかけるから」という声がかかりました。ドラフト会議は11月23日です。指折り数えながら、その日を楽しみに待っていたところ、前日の22日にスカウトの方から電話が入り、「関西の有力な選手が他の球団に取られそうだから、島田君はドラフト外でも構わないかね」と言われたのです。人の良い私は二つ返事で快諾しましたが、ドラフトで私の名前が読み上げられることはありませんでした。その時に「他の球団からも声がかかっていますから、中日さんが指名しなければ、他の球団に取られてしまいますよ」といえば、どうなったか分かりませんが後の祭りでした。そして、12月に電話を入れたところ「基選手と藤波選手のトレードが決まれば、ドラフト外で君を取る」といわれ、今度は間違いないという確認も取れました。しかし、結局そのトレードはご破算になってしまったのです。さて、困ってしまいました。どうにかして、どこかの球団にもぐり込めないかと、いろいろな球団にドラフト外での入団交渉を始めたのです。複数の球団と交渉した中で、一番契約金の高かった日本ハムに入団することに決めました。しかし、ホッとしたのも束の間、入団発表の時、日本ハムの当時の2軍監督の福田さんが私のところに近寄ってきて「君、何しに来たの」と。挙げ句の果てには「1年間ユニフォームを着させてやるから、次の仕事を探しておきなさい」と言うのです。何ということを言う人なんだと思いましたね。しかし、この福田さんが私の野球人生を大きく飛躍させてくれた人になろうとは、この時知る由もありません。

2008年04月18日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 5

光と陰が激しく交錯する波乱万丈の野球人生の始まり

 中学の野球部では目立った成績も上げられず、3年間が終わりました。思い出に残っているのは、3年生最後の夏、38・7度の高熱があるにも拘らず、出場した試合で4打席連続ホームランを打ったことぐらいでしょうか。そして、しばらくした後、先生に呼ばれて「9つの高校から声がかかっているが、どうするか」と言われましたが、私は友達といっしょに大阪の会社に就職するつもりだったので、きっぱりその有難いお誘いを全て断ったのです。もちろん、先生は納得がいかず、親父に連絡を取り、その旨を伝えたようです。今度は親父から呼び出しを受け「馬鹿もの!今の時代、高校ぐらい出ないと大した会社には入れないぞ」ときつい一言。結局、高校へは進学したのですが、もちろん申し出のあった高校ではなく、幼稚園、小学校、中学校の先輩がいた直方学園高等学校を選びました。

 高校3年生になって、プロ野球の南海ホークスから投手で来てくれないかというお誘いを受けました。私は外野と同時に投手もやっていたのですが、南海ホークスのスカウトが見に来ていた試合で投げていた時のことです。4回2アウトのカウントで、次の打者にカーブを投げたのです。すると、バキッという音がしました。とても投げられる状態ではないと思い、私は監督にお願いして投手を交代してもらいました。病院で診てもらったところ、腕が折れてしまっていたのです。しかし、その後も試合に出続け、北九州市民球場で行われた高校最後の打席でホームランを打ちました。その活躍が早稲田大学のスカウトの目に止まり、早稲田大学からも声がかかったのです。さて、南海ホークスはどうなったのかと言いますと、監督に問いただしてみると「ケガするやつは要らん」と言われたそうです。この一言で月の裏側までプロ野球が飛んで行ってしまったようなショックを受けましたね。南海が消えて早大が浮上した訳ですが、監督に相談すると「お前の学力で早大に入っても卒業できないから諦めろ!」と一喝され、再び親父に事情を説明し、自分は社会人野球に進みたいという意志表示をしました。すると、「馬鹿もの!今の時代、大学ぐらい出ないと大した会社には入れないぞ」と一蹴。数年前に聞いた“高校”が“大学”にすり替わっているじゃありませんか。早大は諦めましたが、私が入学することで特待生3人を受け入れるという地元の九州産業大学に入学することになりました。

2008年04月17日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 4

野球との出合いが人生を変えるきっかけに

 6歳の時に、グランドで青年団の人たちが野球をやっているのを土手で一人で見ていました。もちろん、その当時は野球の“や”の字も知りません。私はちょうど外野のライトを守っている人の後ろの方で見ていたのですが、突然そのライトに大きな打球が飛んできて、ライトの人が私の方を見て「危ない!」という仕草をしたのです。ボールはまさに私の顔めがけて飛んできました。私はまるで金縛りに合ったように動けなくなりましたが、次の瞬間、何とそのボールをキャッチしていたのです。それを見ていたライトの人から「坊や、野球をやったことがあるのか」と聞かれ、「いや、全くない」と答えると、「それじゃ、教えてやるから下りて来なさい」と野球の練習に誘われ、6歳の時に青年団の野球部に入部することになりました。1週間に1度ぐらいでしたが、ボールの握り方から、バットの振り方まで、いろいろなことを教わりました。

 中学生になった時、身長が140センチメートルと、中学1年生にしてはかなり低い方です。この身長コンプレックスを何とか克服したいと思った私はバレーボールやバスケットボール部に入ったのですが、回転レシーブのやりすぎで身体がおかしくなったり、ボール拾いばかりで面白くなく、すぐ辞めてしまいました。そしてブラブラしていたところ、友人から野球部に入ったらと勧められ、遅ればせながら、6月に野球部の門を叩きました。

2008年04月16日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 3

4歳の時に遭遇した事故がその後の人生を変える転機に

 事故を起こした時の話しですが、4歳の時に私の兄と友達を含めて4人でボタ山にトロッコに乗りに行こうということになりました。いざ、トロッコに乗ろうとした時、私の友達が早く乗れよと、私の肩に手をかけてポンと押したのです。バランスを失った私はその場で転倒し、トロッコを引っ張っているロープに腕が挟まれて右腕がボロボロになってしまったのです。すぐに病院に搬送されましたが、診察の結果、右腕切断という診断が下されました。医師は「今、右腕を切断しなければ破傷風になり生命を脅かす結果になる」と駆け付けた親父に告げたそうです。そこで、親父は「今、右腕を切断してしまうと、一生、後ろ指を指されるような人生になってしまうから、右腕を付けたまま五体満足なままで死なせてくれ」と頼んだそうです。普通の親であれば、命が助かるなら涙を飲んで右腕切断を選択するところです。もし、その時、親父が切断することを受け入れていたら、もちろん今の私は無かったはずですから、運命というものは本当に分かりません。

2008年04月15日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏 2

人口わずか5万人足らずの福岡県中間市は人材の宝庫

 私は福岡の北九州市に程近い中間市という場所で生まれました。同郷の有名人としては、映画俳優の高倉健さんは言うまでもなく、先頃お亡くなりになりましたが、西鉄ライオンズの内野手として活躍された後、近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの監督に就任されて野茂英雄選手(カンザスシティ・ロイヤルズ)やイチロー選手(シアトル・マリナーズ)を育てた仰木彬さん。さらに、清原和博選手(オリックスバファローズ)や桑田真澄選手(ピッツバーグ・パイレーツ)を育てた高校野球では名門の元PL学園高校監督・中村順司さん(現名商大監督)。そして、恐れながら私を加えた4人が故郷・中間市出身の有名人と言われています。周囲からは、人口僅か5万人足らずの小さな街から、よくこれだけの有名人が出たと言われます。
 さて、今回の講演のテーマが「困難を克服」ということですが、実は私は4歳の時に大事故に遭いました。そして、この事故をきっかけに私の人生が劇的に動き始めたのです。この事故が私の人生の中でどのような意味があったのか、そして事故後のハンディをどう克服し、その後の人生につないでいったのかを、これからお話ししていきたいと思います。

2008年04月14日

講演収録 「困難を克服して」 プロ野球解説者 島田 誠 氏

 現在、プロ野球解説者としてテレビやラジオで活躍中の島田誠氏。井口資仁選手(現サンディエゴ・パドレス)や柴原洋選手を育て上げ、福岡ダイエーホークスの3度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献した名コーチとして知られている。現役時代最後の1年を福岡ダイエーホークスでプレーしたが、古巣は日本ハムファイターズ。身長168センチメートルとプロ野球選手としては小柄な体ながら、俊足巧打の名選手として活躍。しかし、体格的に恵まれなかった島田氏の野球人生は、次々に起きる苦難を乗り越えてきた歴史そのものだった。一体どのようにして苦難を克服してきたのか、熱く語って頂いた。

プロ野球解説者 島田 誠 氏島田 誠●しまだ・まこと
1954年9月3日生、福岡県中間市出身。九州産業大学卒業後、丹羽鉦電機、あけぼの通商を経て、1977年日本ハムファイターズへ入団、1991年に福岡ダイエーホークスに移籍した。ベストナイン2回、ゴールデン・グローブ賞6回。生涯成績:打率:.279、安打数:1504、本塁打:76、打点:439、盗塁:352。現役引退後、97年〜2006年まで福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)で外野守備走塁コーチを担当。07年からはTV・ラジオの野球解説者、コメンテーターとして活躍中。